2009/06/16

星型の要塞 その2

その1
http://styleuse.blogspot.com/2009/06/blog-post_16.html

の続きです。



城壁の存在は、囲われた同じ空間に住むという市民意識を生み出した。


城壁内に住むことにより、囲いの中にいるという権利を持ち、同じ権利を共有した集落が形成され、自治も発生した。

また、ヨーロッパでは城の存在が一つの国を形成していたといえ、城壁は城と一体となった市民を守るために存在するものであった。

戦いが起こるとなると、異民族と国をかけた争いとなるため、同じ空間を共有するという強い市民意識が確固としたのではないだろうか。

過去から現在まで、ヨーロッパの町に広場が存在するのも、市民にとって、空間を共有するという点で、パブリックスペースを確保しようとする意識があったためではないだろうか。

こういった市民性は、城塞都市を支えていった原動力であろう。 城壁に囲まれた村は都市と呼べる場として成立、機能していった。



一方われわれの住む日本では、城壁はあまり見受けられない。

ただ、城の防御策として、領主の住む城の周りには塀が存在し、三差路と行き止まりを効果的に利用することなど挙げられる。

しかし、町全体を城壁で覆うようなことがなかったということは、領主に対し、その地域に住む人々が従属する強い関係が日本では特徴的であったといえる。

(まさに日本的。組織に従属する。)


しかも、争いで戦うのは基本的に武士であったため、国民の大多数を占めた農民にとってはある意味、領主が代わるだけにすぎない争いであったのではないか?

主従関係により、市民としての意識が作られなかったからか、日本にはヨーロッパのような広場も存在しない。

また、ヨーロッパと異なり、単一民族国家である日本の戦いは、外部から侵入してきたとしても、来る人は基本的には同じ日本の人間であり、民族同士の激しい対立のような状況は島国ゆえ起こらないことも挙げられる。


以上からまとめると、争いに直接参加するのは一部の人間であり、領主にとってみれば、農民を地域とひっくるめて守ろうという意識がなかったこと、城壁のように周りを囲うようにしてまで、外部との接触を拒む必要性を感じていなかったことが、日本で城壁を発達させなかった理由と言えるのではないだろうか。


城壁が存在しなかったことは、現在の日本の特徴として現れていると考えられる。

日本では首都圏でのグリーンベルト構想が失敗したように、都市のスプロール化が起こってしまった。 まちの無秩序な広がりはまさに、城壁という囲いの意識が制限してくれることによる、コンパクトなまちづくりとは対照的である。


日本でも近年コンパクトシティの議論など進んできているものの、城壁文化のなかった日本にとってはこういった考え方に至るまで長い年月をかけることになったようである。




主観なんでこの主張が正しいとはいえませんが。



それにしても落ち着いて時間の過ごせる公園でした。
鴨がちょこちょこ園内を歩いていたりね。
ちょうどつつじや藤が見ごろでした。


もうちょい公園内に休めるスペースがほしいな。
















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